『君の名は。』をみて感じた「あたたかいもの」

(※映画『君の名は。』のネタバレを多少含みます。)

 いつ頃だっただろうか。もしかすると小学校に入るより前のことかもしれない。

 私には、お気に入りのパーカーがあった。パーカーというよりは、ジャンパーのようなものだっただろうか。明るい茶色をしていて、ところどころ白で意匠があった気がする。とにかく、記憶が鮮明でないのだ。そんなに高価な物ではなかった。おそらく母が安売りで買って来たもので、今となっては着る服のデザインなんかに無頓着な自分が、なぜその服にこだわっていたのかも分からない。その服が着られなくなったとき、母は私にその服を捨てるように言った。もう着られないものだ。当然といえば当然なのだか、幼い私はそれにずいぶんと抵抗したことをおぼえている。

 けれども、結局捨ててしまった。だから今はもうその服は手元にない。でも、私はその服のことを思うと、なんだかあたたかいものを感じるのだ。とても大切なことのように思えるのだ。

 

 映画『君の名は。』にはあたたかいものが溢れていた。
 例えば、宮水神社。例えば、高校時代の思い出。例えば、亡くなった三葉の母の思い出。例えば―失われた糸守の町。
 これらは、冷酷な視線で見れば“意味のないもの”だ。
 「繭五郎の大火」で宮水神社の“意味”は失われた。
 高校時代や在りし日の母を思うことにも“意味”はない。
 彗星で失われた糸守町を思っても―町が戻る訳ではない。
 けれども、そんな“意味のない”ものでも、心に浮かべるとあたたかくなるようなこれを、少しくらい大切にしてみても良いじゃないか、と私は思う。
 そして、『君の名は。はそんなあたたかいものの中にある素敵なものを追い求める作品なんじゃないかな、とも思う。

 

 時代は目まぐるしく変わって行く。ここ最近なんて特にそうだ。時代について行くってどういうことだろう?Twitterを始めて、インスタを始めて、iPhone7を買ってみて、それが時代につい行くということだろうか?仮にそうだとしても“現代人”を演じるのは、結構疲れることだろう。
 そんな時、ふと、後ろ髪をつかむあたたかいものに、少しくらい、気をとられてみても良いじゃないかと私は思うのである。