『君の名は。Another Side:Earthbound』のすすめ

 

(※映画「君の名は。」のネタバレになりうる記述を含みます。)

 

 映画「君の名は。」の外伝『君の名は。Another Side:Earthbound』(角川スニーカー文庫)を読んだ。単調な言葉で言えば、とてもよかった。これに尽きる。以前、君の名は。はあたたかさにあふれた映画だ。と述べたが、この本の241ページに『あたたかいもの』という文字列を見つけたときは、正直しびれた。間違ってなかったと思った。それはともかく、作者の世界観に感動して涙しそうになったのはこれが初めてだった。

 

 まずは、この本を手に取った経緯を。こんなことを言うのは不毛なのはわかっていうのだが、私が映画「君の名は。」を知ったのは、発表後結構すぐのことだった。新海誠監督のことはもちろん「君の名は。」以前から知っていたし、監督の描く世界はとても好きなので、映画の発表が楽しみだった。が、しかし、実際に映画が発表されて、TwitterやらTVで騒がれるようになるまですっかり忘れていた。(本当に、これこそ『忘れたくないもの!忘れたく(ry』だ。)

 だから、ぶっちゃけ「君の名は。」の大ブレークはちょっと悔しい。

でも、だからこそ「君の名は。」を全力で楽しんでやろうじゃないか、ということで外伝小説の『君の名は。Another Side:Earthbound』にも手を出してみた次第である。

 

 正直なことを言うと…(映画本編よりも面白いかもしれない)

 もちろん、映画を見たからこそ、この外伝を楽しめるのだが、この外伝を読んで「君の名は。」が100倍くらい面白くなった。

映画本編で(やはり時間も限られていることもあり)語られきれなかった部分が結構あるように思う。例えば、結局なぜ町民は全員避難できたのか。一葉、三葉の父、母(本編では語られないが、やはり名前は二葉だ)はどういう人物なのか。父はなぜ町長になったのか。宮水神社はどういう存在なのか。また、彗星が落下してなお、糸守の人が地元を離れなかったのはなぜか。そんな疑問に答えをくれる、「答え合わせ的」な要素にも満足した。

 

 個人的に好きなのは170ページからの四葉のエピソードと第四話で、私が涙しかけたのもここなのだが、ここで個人的な感想を述べるのは控えておく。(良さを語りたいのは山々だが)

 

 作者の加納新太氏は公式ビジュアルガイドのインタビューで次のように語っている。

 『新海さんの作品はどれも多くを語らず、あえて空白を作ることで、その穴埋めを観る人に委ねているところがあるんですね。つまり、人によって解釈が異なって当然なんです。この小説に関しても、“あくまで加納新太が考える解答はこれです”と言っているにすぎない。ですから、まずは、映画を観て感じた自分の感情や解釈を大事にしてもらいたい。その上で、「なるほど、こういう捉え方もあるんだね」というぐらいの気持ちで、この外伝を読んでいただけたらと思います。』

 あくまで、この外伝は“二次創作”だということか。そして、なるほど、“語られきれなかった部分が結構ある”のも新海監督の狙いなのか。(リピーターが多いのもここら辺が関係しそうだ。)私も、私なりの「君の名は。」を探そうと思う。

 

 

ぜひ、映画本編をまだご覧になってない方は劇場に、外伝を読まれてない方は読んで、あなたなりの「君の名は。」を見つけてほしい。

『君の名は。』をみて感じた「あたたかいもの」

(※映画『君の名は。』のネタバレを多少含みます。)

 いつ頃だっただろうか。もしかすると小学校に入るより前のことかもしれない。

 私には、お気に入りのパーカーがあった。パーカーというよりは、ジャンパーのようなものだっただろうか。明るい茶色をしていて、ところどころ白で意匠があった気がする。とにかく、記憶が鮮明でないのだ。そんなに高価な物ではなかった。おそらく母が安売りで買って来たもので、今となっては着る服のデザインなんかに無頓着な自分が、なぜその服にこだわっていたのかも分からない。その服が着られなくなったとき、母は私にその服を捨てるように言った。もう着られないものだ。当然といえば当然なのだか、幼い私はそれにずいぶんと抵抗したことをおぼえている。

 けれども、結局捨ててしまった。だから今はもうその服は手元にない。でも、私はその服のことを思うと、なんだかあたたかいものを感じるのだ。とても大切なことのように思えるのだ。

 

 映画『君の名は。』にはあたたかいものが溢れていた。
 例えば、宮水神社。例えば、高校時代の思い出。例えば、亡くなった三葉の母の思い出。例えば―失われた糸守の町。
 これらは、冷酷な視線で見れば“意味のないもの”だ。
 「繭五郎の大火」で宮水神社の“意味”は失われた。
 高校時代や在りし日の母を思うことにも“意味”はない。
 彗星で失われた糸守町を思っても―町が戻る訳ではない。
 けれども、そんな“意味のない”ものでも、心に浮かべるとあたたかくなるようなこれを、少しくらい大切にしてみても良いじゃないか、と私は思う。
 そして、『君の名は。はそんなあたたかいものの中にある素敵なものを追い求める作品なんじゃないかな、とも思う。

 

 時代は目まぐるしく変わって行く。ここ最近なんて特にそうだ。時代について行くってどういうことだろう?Twitterを始めて、インスタを始めて、iPhone7を買ってみて、それが時代につい行くということだろうか?仮にそうだとしても“現代人”を演じるのは、結構疲れることだろう。
 そんな時、ふと、後ろ髪をつかむあたたかいものに、少しくらい、気をとられてみても良いじゃないかと私は思うのである。